桝郷春美のブログ

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フリーランスのライターです。執筆記事や日記など。

耳の記憶がよみがえる

2022年3月28日は生まれて初めての手術だった。朝9時スタート。「手術室に入った時に流す音楽のご希望はありますか?」と看護師さんに聞かれ、とっさに浮かんだ"Mannenberg"(Dollar Brand)をリクエストする。
南アフリカの第二の国歌と言われるくらい親しまれてる歌やで」と、なじみのジャズ喫茶で教わっていた。アパルトヘイト(人種隔離政策)に反対し、警察に逮捕された時に、人々が合言葉のように口ずさむ曲とも聞いていた。
パララララララ〜♪とマスターの鼻歌を思い出す。ビビりの私にとって、極限の緊張の場面で耳の記憶がよみがえる。
手術室に入ると、その曲を本当に流してくれていた。ちょっと気分が上がる。「曲合ってます?」「はい」「音楽好きなんですか?」「ジャズ喫茶で教えてもらった曲なんです」「へー、ジャズ喫茶ってあるんですね、どこですか」「出町柳
そんな会話と並行して、手術台へ上がり、点滴の準備がなされる。右手に刺される痛みから気をそらすように、スピーカーのある左側の耳が大きく開いていく。
「耳を大きくするんや」
そうや、音に深く耳を澄ませる意識は、マスターと行く真夜中のサイクリングで鍛えてきたから、私はできる。
パララララララ〜♪ 努めて意識を「そっち」に持っていく。3回目でやっと針が血管に通った。痛みが増すにつれ、Mannenbergのメロディがまけじと体に流れ込み、曲も私の意識も全力で「そっち」に向かっていった。重なり、溶け合い、そのうちに私の意識は、飛んだ。
「ますごうさーん」
手術が無事に終わり、目覚めの始まりも、耳だった。ぼんやりと目を開いた瞬間、「家かと思った」と思わず声が出る。なんだこの日常的非日常は。数時間かけて、徐々に意識が戻った。ずっと手術室にいると思っていたけど、もう病室だった。空間認識は遅れて戻ってきた。
やがて、耳や目や体全体の意識が合わさってきて、腹が空腹を訴える。そうか、24時間食べていない状態だ。夕食のちらし寿司をおいしく食べる。勢いよく食べすぎたのか、お腹が痛くて眠れなくなった。温かいタオルを腹に当てる。
ままならない体を経験して、これからは傷もまるごと自分を大事にして、周りの人たちを、まるっと愛していこう。あたらしいステージのはじまり。これからも不安なく元気で楽しく生きていくために。
ゆっくりと呼吸から始めていく。